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2010年4月18日 (日)

「耳塚」―苛烈な歴史のひとこま

京都国立博物館の北側にあるのが豊臣秀吉の勅願で建てられた方広寺です。その大仏殿は奈良・東大寺大仏殿の3倍もあり、権勢の絶頂期のシンボルでしたが翌年(文禄4年=1595)の地震で早くも倒壊するなど何度も倒壊、焼失を繰り返しました。最後が昭和48年3月28日夜の火災で焼失、再建されないままになっています。当時は新聞記者でしたので緊急呼び出しで現場取材に駆り出されました。木造の大仏の顔の部分から激しく火が噴き出ていつまでも燃えていたのを覚えています。この方広寺大仏殿(跡)からまっすぐ西に延びているのが「正面通」です。通りを100メートルほど行った南側に「耳塚」があります。

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朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で諸将が持ち帰った敵兵の耳や鼻を秀吉が実地検分したあと、供養に埋葬したことからその名がつきました。もとは「鼻塚」とも。まさしく苛烈な歴史の<負の名所>です。何台もの観光バスが停まることもあり韓国からのツアー客がいちばんに祈りを捧げるスポットです。ハングルの説明文に涙する方も多いと聞きました。久しぶりの「耳塚」はきれいに整備され、昔と違って立ち入れないようになっていました。私もしばし黙祷。まさに古都の光と影、歴史の光芒はある意味ではこうした残酷すぎる一面も併せ持っています。 (記入者:野次馬)

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